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不思議な絵である。
この絵は私の感覚や感情にうったえてこない。風も吹いていないし、動きも感じられないし、音も聞こえてこない。喜びでもないし、悲しみでもない。
ただ、言葉の重みとゴーギャンの真剣さが迫ってくる気がした。そして、その真剣さは、私の感情にではなく、むしろ理性と思考にうったえてくるのだった。この絵は「感じさせる」のではなく、「考えさせる」のだ、と私は思った。
ゴーギャンはこの絵を描くときにはビジョンが明確で迷いがまったくなかったと言っている。多分、ビジョンがあまりに明確だったがために、理性が勝ってしまったのではないだろうか。意を伝えよう、表現しようと思いすぎてしまったのではないだろうか。多分、ゴーギャンはこの絵を描き終えても燃え尽きることが出来なかったのではないだろうか。
この偉大な絵を前にして、ド素人の私は、恐れ多くもそんなことを考えてしまった。
もし、言葉が 《我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか》、ではなくて、 《私はどこから来たのか、私は何者か、私はどこへ行くのか》 (D'où
viens-je? Que suis-je? Où vais-je?)
だったらどうなっていたのだろうか。
ゴーギャンはまったく違う絵を描いたのではないだろうか?
絵を観に行って、「言葉のもつ力」を思い知らされた、そんな一日でした。
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